薬 師 4

 自邸に戻り、あれこれと持って行く物を準備していた時行は、ふと思い出したように香箪笥から包みを幾つか出して手荷物の中に加えた。そして忘れ物がないか再度確認してからまるで逃げるかの如く走り出し、築地を飛び越えて表に出て行った。あろうことか黒い紗の被衣を着用したままで。

 その様子を妻戸の影から見ていた人物が、肩を落として盛大に溜息をつく。

 「あと幾度叱ればご理解頂けるのかしらね。」

 その人物はそう言うと、自分の後ろに控えていた者に苦笑をもたらす。そんな心配を他所に、時行はひたすら保憲邸を目指して走って北上していた。



 その頃保憲はというと、来るべき客人の為に離れを整頓していた。普段ここは瞑想をしたり、何か物事に集中したい時に使っている。無論今回のように表向きに出来ないような内密な話や仕事の依頼を聞く時等にも使っている。

 そして手ずから五加皮ごかひを煎じたお茶を用意すると、風除けをつけた燈明皿を手に主自ら客人を迎えに門の外まで出て行った。

 戌の時二つになるかどうかのぎりぎりの刻限に、客人こと時行はやってきた。走ってきたのはいいのだが、足は素足だった。

 「余裕なき行動をしていると、出世に響くぞ。」

 「宮中の役職内でも世襲制の磐石が築かれようとしているこの時期に、出世を求むること自体無為だと知れ。」

 呼吸を整えながらもそう返す時行。こういうところは可愛げがないなと思いつつ、保憲は門を開けて時行を招き入れた。が、時行は動かない。保憲は不審に思って彼の方に視線をやると、被衣を額まで上げた時行と目が合った。目が合ったのを確認した時行は、にこっと笑うと会釈をする程度頭を下げた。

 「ご足労を伴わせて申し訳ございません。主自らのお出迎え有難うございます。」

 そう言い終えた時行は顔を上げ、再び保憲と眼を合わせるとほんのり目だけで笑んでみせ、被衣を元の位置に戻した。計算付くでこういったことをやっているなら、更に可愛くないと思うところだが、本人に悪気もなければ何の思惑もないからな。性質たちが悪いというかなんというか・・・・などと胸中でごちりながら、保憲は離れに案内した。

 保憲が先に入り、部屋の中を明るくした。時行は離れに上がる前に、事前に用意されていた水の張られた桶と手拭いで足を綺麗にしてから上がり、そして手荷物の中から本来なら履いてくる筈だった沓(くつ)を保憲の沓の隣にちょんと置いた。それから黒い紗の被衣を取ると、少しばかり乱れた髪を烏帽子の中にうまく収めた。

 「・・・・・・話を始める前に。」

 五加皮のお茶を時行に薦めた保憲は、自分の分を時行よりも先に飲んでみせる。

 「兄心このかみごころ感謝致します。」

 保憲のその行為と煎じてあるお茶が何であるか分かった時行は、素直に感謝の意を表す。五加皮は腰痛や鎮痛他、疲労回復にも用いられる薬草だ。山野草だが、栽培が容易且つ棘があるので生け垣などにも用いられる。

 程無くして保憲が話を振る。

 「先日、陰明門で鈴を拾われたと言うたよな。」

 時行が顎を引いたのを確認し、保憲は重信が言っていたことと、その場に博雅も居り時行と童子二人にもまだ強い興味を持っていることも伝えた。

 「源重信様と申しましたな。会うことは構いません。ですが、幾つか条件がございます。」

 時行の出した条件はこうだった。

 先ず、場所は現在の二人が居るこの場所であること。会うのは重信のみであること。望来同伴であること。時行自身は被衣着用の上、話すことはないこと。そして会うのは若潮、つまり十日あまり月の日のみということ。を告げた。

 「何故十一日月限定なのだ?」

 ふと疑問を口にした保憲に、時行は一言ばっさりと言った。

 「暦を見ろ。」

 彼のそんな不遜な態度を見て、保憲はこういうところは本当に可愛くない。と思い返す。言われた通りに暦に目を通すと、今月は十五夜という行事があり、その近くに二百二十日があった。三大厄日の最後の日で、最も注意しなければならない日とも言われている。何に注意をしなければならないかというと、天候である。

 大いに納得する保憲。そして身体を反転させると紙と硯一式を出し、墨を磨り始める。

 「今条件をしたためるが故、暫し待っておれ。」

 「ならその間、持ち物の整理をしておく。その後にご所望の品をお渡しします。」

 そう言い合うと、二人は同じ空間で違う作業を始めたのだった。

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